【渇望】


 生れてはじめて触れた死は、祖母だった。耳を澄ませば寝息が聞こえてきそうなのに、呼吸に合わせて胸は上下しない。呼べば返事が聞こえそうなのに、何も反応がない。子供だからとからかわれているのだろうと思ったけど、周囲の反応を見て考え違いだと気付く。

 

 たった一晩で、祖母の皮膚はとても硬くなっていた。蝋人形ともシリコン樹脂とも違う、樹皮のように乾燥した質感を指先が記憶している。この時、眼前で横たわっているのが祖母ではなく、祖母を模した〝ただの物質〟であると認識した。死が眠りと似ていると感じるのは肉体が生命活動を終えたばかりでまだ柔らかく、私達が生きているからこそ眠っているようだと錯覚しているだけだと思う。

 

 では、祖母だった者はどこへ行ってしまったのだろう……? 

 

 

【渇望】

 

 

 私の世界では《神の代行者》と名乗っている崇教が最も古いとされ、ここ北大陸のギルダでは生活の一部となっている。他大陸の事情は知らないけれど、イフェリアでは死者の御魂を弔う為の教会で葬儀を行う。

 

 大きなバラ窓にはめ込まれたステンドグラスを背負う、死を司る黒衣の天使タナトス様を模した像が見下ろす礼拝堂は思わず息を止めてしまうほどに静かで、厳かなのにぼんやりと物悲しさが満ちている気がした。きっとここは膨大な数の死を見送ったのだろう。イチイが彫られた石台の上に横たわる、ただの物質と化した祖母に対して生前に交流のあった者達が別れを惜しむように、生者の悲しみや嘆きが死者の旅路を邪魔しないよう、この空間で受け止めながら。

 

「…………」

 

 開始までの時間はとても退屈なものだった。教会内を見て回るにしても、礼拝堂とエントランス。トイレくらいしか行ける場所がない。礼拝堂は白を纏った参列者達が各々別れを惜しみ、既に冥福を祈っている者も居る。エントランスに設けられた待合スペースに飲み物とお菓子の自販機はあるけど、父も母も白い斎服を纏った助祭と段取りの確認をしているからお金を貰えず、暇を持て余すしかなかった。

 

「コンニチハ」

「…………」

「お嬢サン、コンニチハ」

「……!」

 

 聞き慣れない訛りの有る知り合いなんて居ないので、私に向けられた挨拶ではないと思っていたから吃驚したのを記憶している。視線を向けた先には白を基調とした良質な生地に、金糸で描かれたイチイやユリを模した刺繡が美しい斎服を纏い、深めにフードをかぶったお兄さんが居た。

 

「こんにちは……」

「ハイ、コンニチハ」

 

 お兄さんの目元は深くかぶったフードと黒く長い前髪で隠れていてまったく見えないけれど、見える肌は蒼白く透き通り、口元には上弦の月が浮かんでいる。一見不審者に見える風貌でも着ている服が立派だと様になると言うか、絵になるというか……この時に感じた魅力を〝魅力〟としか表現できないのが口惜しい。

 

「あ、居たいた! タナトス司祭!」

 

 声の方では助祭が控え目に手を上げて存在をアピールしている。

 

「ちょっと待ってクダサイ。……お嬢サン、此れをどうぞ。アナタのお婆サンカラ」

 

 白い手袋を纏った手が差し出され、私は両手を受け皿する。掌に置かれたのは、ジュースとお菓子を自販機で買うのに十分な硬貨だ。

 

「花壇の水やり。花瓶の水交換。お婆サンが倒れてからずっと、アナタがシてイマシタ。其のお礼だそうデス」

「なんで知ってるの?」

「お婆サンカラ聞きマシタ」

「……!」

 

 私は礼拝堂へ駆け出した。捕まえようとする母の手をすり抜け、ただの物質となった祖母の元へ行き、石台を支えに命一杯背伸びをして覗きこむ。やっぱりここに在るのはだたの物質で、祖母ではない。

 

「ばぁば、起きた?」

 

 近くにいた数人に尋ねると、悲しみを驚きや困惑を浮かべて首を横に振る。

 

「お婆ちゃんはね、もう起きないのよ」

 

 私が死を理解していないとでも思ったのだろう。皆が群がっている亡骸に祖母は居ないと、私は考えている。では、祖母はどこへ行ったのだろう? ふと背後に気配を感じて振り向くと、タナトス司祭が立っていた。この場に居る誰もが息を呑み、視線を向けている。

 

「司祭様は、ばぁばと話せるの?」

 

 そう言った瞬間、そこかしこで聞こえていたすすり泣く音がピタリと止んで、呼吸音さえ身を潜めるほどに空気が静まり返った。

 

「声を聞くダケ、デス」

 

 タナトス司祭は静かに言葉を続ける。

 

「ヒトは肉体、幽体、霊体の三層で魂を保護シてイルンデス。活動を終えた肉体は現世に残り、幽体と霊体が合わさった状態で存在シマス」

「ばぁばはどこに居るの?」

「…………」

 

 ゆっくりと白い手袋を纏った手が、石台の左隣を指差した。近くに立っていた人が小さく息を詰まらせ、その場から飛びのく。

 

「……見えない」

「此の世界は其々異ナル性質の次元が層になってイルンデス。……ミルクレープを想像シたら分かりやすい、カナ?」

「ばぁばが作るミルクレープ大好き!」

「そうデスカ。……ニンゲンは三次元の物質界で生きてイマス。なので同じ次元に在る物質は見えマスガ、他の次元に存在スルものは基本的に見えマセン。時折、何かの拍子で影が映される事がありマスケド……話せば長くナルので省略シマス」

「司祭様は見えるの?」

「死後の世界は想念の世界。生前の心の在り方、生き方が大いに影響シ、死者の姿を歪めてシまう事もアル。ダカラ、見えないにこシた事はナイデショウ」

 

 パン。とタナトス司祭は手を叩く。

 

「サテ、そろそろ葬送の儀を執り行いマスノデ、着席シてクダサイ」

 

 入り口から石台までの通路を挟むように設置された長椅子に大人達移動する。私は母親に手を引かれ、前の方に座った。

 

「死は嘆き悲しむものではありません。現世での役目を終え、在るべき場所へ還る為の節目なのです。シャルロッテ・プリンダルサンは天命を全うシ、今日、旅立ちマス」

 

 タナトス司祭は助祭が持ってきた一際大きな白百合を一輪、手に取り私を呼ぶ。母や父に促され前に出ると、白百合を手渡された。その儘抱き上げられ、反射的にただの物質と化した祖母に手向ける。

 

「葬送の儀は三つの意味がありマス。一つは節目を迎えた事を祝い、労い、肉体を弔う為。一つは己の死を自覚シナイ死者に悟らせる為」

 

 小声で言いながら私を下ろし、タナトス司祭は大人達に向けて朗々と言葉を続けた。

 

「死後の世界は想念の世界。言葉よりも生者が発スル想いが、直接通じてしまうのデス。嘆き、悲シみは柵となり、死者が今世に未練を残す要因となりマス。行き過ぎた好意も同じデス。心の底カラ個人の安息を願うなら、我を捨て祈りナサイ」

 

 誰もが俯き、祈る。ぽつり、ぽつりとすすり泣く音が連鎖する中、悲しみを煽るような物悲しくも心地良いパイプオルガンの音色が高らかに響く。

 

「最後の一つは生者の気持ちを慰める為、デス」

 

 父と母に『お嬢サンを、お借りシマス』と言いって、タナトス司祭は私を連れてただの物質になった祖母を運ぶ助祭達と地下へ潜った。

 

 

 

 教会の地下に広がる空洞には地底湖があって、鋭い冷気に満ちた空間は蒼白い光と暗闇が広がっている。パイプオルガンの旋律が反響し、なんとも不思議な気持ちになった。助祭達はただの物質になった祖母を布でグルグル巻きにして、畔に積まれた薪木の上に寝かせて清めたオイルを注ぎながら、古い原語で祈りを紡いだ。

 

「役目を終えた器に、労イの言葉を」

「……おやすみなさい」

 

 タナトス司祭の手を借りながら、火を放つ。ボッ! とひと吠えすると瞬く間に力強く燃え盛り、赤みを帯びた橙色の炎が踊り出す。灰色の煙は地底湖の方へ流れていくが、私の鼻孔には人間が焼ける独特のニオイが充満する。気分が悪くないと言えば嘘になるけど、お母さんの元へ戻りたい。と言い出すのが憚られる空気に負け、おとなしく助祭が用意してくれた椅子に座った。

 

 シャン。澄んだ高音域の鈴の音が響く。タナトス司祭がいつの間にか地底湖の浅瀬に立っていた。さっきの鈴の音は彼が持つ剣に括られた鈴の音だ。もう一度、シャン。と鈴が鳴った瞬間、空気が張り詰めた。

 

 そこからの記憶は、まるで夢を見ているようだった。パイプオルガンの旋律に合わせてタナトス司祭が舞い始めると煙が無数の蝶へと変化し、地底湖からぼんやり蒼白く輝く光の粒がぶわっと浮上して空間をたゆたう。幻想的。神秘的。荘厳。威厳。そんな単語が脳内を駆け巡るほどに現実離れした光景は、私の心を大いに揺さぶった。

 

「…………」

 

 時間を忘れるほど魅入り、タナトス司祭の動きが止まった頃、ただの物質だった祖母は跡形もなく消えていた。

 

「……あ」

 

 思わず声を出してしまい、口を塞ぐ。タナトス司祭の前に、祖母が立っているのだ。タナトス司祭に深々と頭を下げてから振り返る祖母は、生前と何ら変わりない人の良い笑みを浮かべている。助祭達にも頭を下げた後に私を見て、優しく笑う。

 

「ばぁば!」

 

 私は察した。この儘祖母がどこか遠くへいってしまい、もう二度と戻ってくる事はないと。これが〝死〟なのだと気付いた瞬間、視界が滲む。駆け出そうと椅子からおりると助祭達に阻まれる。

 

「ばぁば! ばぁば!!」

 

 幾ら呼んでも返事はない。祖母は困った顔でタナトス司祭を振り返った。彼がゆっくり首を横に振ると困った顔の儘、祖母は私を数秒間見つめる。

 

「いやだ! いかないで! ばぁば、ばぁば!」

 

 伸ばした手は虚しく空気を掴む。

 

「アナタもお孫サンが大切ナラ、情に甘ンじてはいけマセン。サァ、逝きマショウ」

 タナトス司祭の背に、夜の闇よりも黒い両翼が広がった。たゆたう光りを反射する美しい翼は、まるで鴉の濡れ羽のよう。纏う衣装は純白だけど、礼拝堂のタナトス像と彼の姿が重なった瞬間だ。

 

 

 この日、私は初めて天使を見た。そうと知らずに言葉を交わし、触れられた。去り際に優しく微笑み手を振ってくれた祖母に対して反応する事が出来なかった私は、その姿が見えなくなるまで見続けた。

 

 

 あれ以来、私の心はタナトス様に奪われた。もう一度、もう一度だけあのお姿を目にしたい。その一心で私は教会に通い続けた。死者を送る為だけに存在する教会は常日頃から来場が少なく、命日だからと祈りに来る者は片手で足りるほどしか出会っていない。

 

 毎日、毎時、毎秒、此の世界のどこかで誰かが死んでいる筈なのに、誰かの葬送の儀に出くわすこともない儘、一年、二年、三年、五年、十年、十数年と月日が過ぎていく。過ぎ去った日々の中で行われた、家族、友人、知人、関わりある全ての人の葬送の儀でさえ、タナトス様にお会いする事は叶わなかった。助祭達にタナトス司祭の事を聞いても知らぬ存ぜぬと返ってくる。代行者の本部に問い合わせても、回答は同じ。

 

「どうして会えないの……?」

 

 タナトス信仰者の間で囁かれている召喚の儀式を試してみても、贄になりそこなった者達が増えるだけ。気付けば私は世間から逸れてしまっていた。

 

「会いたい……会いたいよぉ……」

 

 タナトス様から受け取った硬貨を握り締め、思考を巡らせる。

 

 

  終

 

 

20220507 柊木あめ