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【Salvami】


【Salvami】

 

 

  高い、高い、廃墟の上。大きな赤い満月が見下ろす中、1人の男が屋上の縁に立っている。ハァ……ハァ……ハァ……。忙しない息遣いがやけに大きく鼓膜へ届く。ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。激しく脈打つ心拍が肉を伝う。ゴクリ。生唾を嚥下して視線を下へと落とした。黒い森が風に揺れ、ザワザワと枝葉を揺らして男を誘う。

 

 

「っ――」

 

 

 沸き上がる恐怖に竦む足に鞭を打ち、味わった屈辱を。悲しみを。理不尽を。苦痛を記憶から呼び覚まし、一歩踏み出した。一瞬の無重力を感じた刹那、落下する。反射的に伸ばした腕は空気を掴み、恐怖に支配されきつく瞼を閉ざす。……ドサッ。土嚢を落としたような鈍い音が響く。言葉に言い表せないほどの痛みが全身を駆け巡った。

 

「痛い、痛いぃ……。なんで、こんな……」

 

 即死をするには十分な高さがあった筈なのに、男は場所を見誤った所為でテラスに着地したのだ。体重を支えようとした脚の骨は粉々に砕け、股関節は破損し、腰骨に亀裂が走る。肉は弾け、折れた骨だ飛び出し、ジワリ、ジワリと命の水溜まりを広げていった。

 

「誰か、助け……――」

 

  命が尽きるのは時間の問題だろう。死ぬのは一瞬だ、と誰が言ったのだろうか。予想に反した苦しみに後悔するも後の祭り。意識を失う其の瞬間まで身を投げた場所を見上げ、苦痛に沈みながら瞼を閉ざす。

 

「嗚呼……嗚呼……!」

 

 瞼を開けた瞬間、男は屋上へ踏み込んだ。ずっと同じ行為を繰り返していると気付いたのはいつ頃だろう? もう何回、身投げを繰り返した事だろう? 今はこうして繰り返されることに疑問を持つも、一歩踏み出せばまた、痛みから逃げる為に身を投げる。

 

「……?」

 

 落ちた瞬間、黒い蝶が視界を横切った。ほんの一瞬、意識を奪われたが男は無意味な身投げを繰り返す。……ドサッ。治らない身体の破損は悪化せず、痛みに痛みを上書きし、救いのない苛立ちが心を焦がす。

 

「…………」

 

 痛みに頬を濡らしながらぼんやり屋上を眺めていると、視界を蝶が横切った。視線だけで追うのは限界で、新しい痛みを伴いながら首を動かすと、月を背負う男が立っている。其れが体現された〝死〟であると認識するのに時間を要することはない。男は縋るように震える腕を伸ばした。

 

 

   終

 

20211224 柊木あめ

クリックで拡大できるらしいです
クリックで拡大できるらしいです

 頭の中に浮かんだ光景を文章で書くには言葉が纏まらず、絵を描いてみました。モブ視点から見たタナトス。手って難しいですね。久し振りに描いた気がします。

 

 文章の方は、自殺した人が繰り返す話ですね。救いを求めて身投げしたのに、即死できなくて、誰も助けてくれなくて、身が朽ちても霊質に刻まれた痛みから逃れる為に、自分の身体が朽ちて存在しないことも忘れてただただ繰り返す。其の終わりを齎すのがタナトス。

 

 夢占いで黒い蝶が象徴するのは絶望。蝶が象徴するのは人生の節目とか人との関わり等々……。深く考えれば幾らでも思考が働きますけど、今回は蝶とタナトスの組み合わせがどうしても書きたかった。

 

 死者の無念や悲しみ、苦痛、苛立ちなどの負の感情が黒い蝶になってタナトスを死者へ導くことがあります。人の思念が蝶になる……素敵ですね。