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【安堵】


 前も、後も、右も、左も分からない。自分が起きているのか、眠っているのかも分からない。すぐ其処にある自分の手足でさえ、真っ暗闇に消えていく。何処から歩き続けたのだろうか。何処まで歩き続けるのだろうか。何も分からない。ただ、此処が真っ暗闇の中であるという事だけしか、分からない。どんなに耳を澄ませても何が聞えるでもなく。どんなに目を凝らしても何が見えるでもなく。立ち止まって振り向いたところで、轍さえも見つける事が叶わない。

 

「   ――」

 

 どんなに声をあげようとも、真っ暗闇に消えていく。否。初めから声が出ているのかどうかも、分からない。本当に歩いてきたのかどうかも分からない。最初から同じ場所に居たのかもしれないし、認識通り歩いてきたのかもしれないが、自身が真っ暗やみの中にいる事は確信している。

 

「…………」

 

 途方に暮れて其の場にしゃがみこんだ。背を丸めて、折り曲げた膝を抱きこむように抱え込んだ筈なのに、何も感じない。膝に顔を埋めようとも、溜息を漏らそうとも、まるで其処に自分が存在しないかのように、何もない。

 

 

 どれ程そうしていたのか分からない頃、不意に音が聞こえた気がする。頼りなかった音が誰かの歌声であり、綴られた音色が聴き慣れない音の並びで、抑揚の乏しい単調な旋律を繰り返していると知った。若そうな男の声だ。どこかふんわりしていて、心地良くて、優しい歌声は子守歌のような安堵を齎す。

 

「ア。居タ」

 

 理解できる音がふってきた時、子守歌は止んでいる。視線の先には黒い影が立っていた。ゆっくりと顔を上げると、若そうな男が立っている。其の背に広がる森の存在に驚きつつも、黒衣を纏い、長い前髪と深くかぶったフードで素顔を隠した彼から目が離せない。

 

「迎えに、来マシタ」

 

 おっとりとした声音。

 

「もう、大丈夫」

 

 まるで自分を縛り付ける何かが解かれたように、身体中が軽くなる。

 

「さ、いきマショウ」

 

 数歩、先を行く。振り返ると彼は笑い、手を差し出した。後を振り返る。自身が歩いてきたであろう、無数の闇が切り刻まれた道が見えた。

 

「もう、大丈夫」

 

 彼は穏やかに謳う。考えるよりも先に身体が動き、彼の手に手を重ねた。手袋越しに感じる、冷えたぬくもり。一歩。また一歩。彼はゆったり歩きだす。

 

「~~♪ ~~~♪」

 

 聴き慣れない音の並びで、抑揚の乏しい単調な旋律が繰り返される。

 

 

  終

 

20210719 柊木あめ

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