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読み物03


 彼が連れて来られたのはもう何十年も過去の事。そして今、私の眼前に立つ彼はあの頃と何一つ変わっていない。もしも此の場に変化があるとするならば、それは私の方だ。

 

 

【とある死者の記憶】

 

 

 場所は神の代行者が管轄している敷地内の一角。雑用係の私は中庭で雑草をむしっていた。

 

「ああ、丁度よいところに。其処の貴方」

 

 低くゆったりとした心地良い声が聴覚に届き、反射的に顔をあげると天使と見間違うほど美しい男が立っている。長い金の髪を首の片側から流して低い位置で一つに括った紫の虹彩をもつ美しい男は小さく笑い言葉を続けた。

 

「貴方に声をかけたのは他でもありません。此の子を、新入りとして預かってほしいのです」

 

 そう言われて初めて大司祭様の隣に立つ黒髪で白いローブを纏った少年の存在に気付く。長い前髪で完全に目元は隠されており横髪の辺りから包帯が見えているので恐らく両目を覆っているのだろうと想像した。あまりに見過ぎた所為か、少年はビクッと肩を跳ねらせてから慌ててフードをかぶり長い前髪の上から更に目元を隠し唇を噛み締めるように口を閉ざす。

 

「容姿について触れないでやってください」

 

 大司祭様がそう言うと少年はコクンコクンと頷いてみせる。よく見れば顔以外の目で見える皮膚全体が包帯で覆われているのに気付く。可哀想に。相当酷いめに遭ってきたのだろう。

 

「幾ら身寄りのない子と言えど、此の子だけを私の傍に置くのは集団の和を乱す要因となりましょう」

 

 私のような下の立場でも大司祭様が孤児を拾い傍に置いている事は噂で知っている。そして噂とはいつの間にか独り歩きするもので、たった一人を特別扱いするのは不平等だの、隠し子だのとよからぬ内容が必ずといっていいほど付き纏い事実を覆い隠し歪めることも知っている。

 

「……恐れなら大司祭様。司祭として教育なさるのならもっと上の階級の者が適任かと」

「司祭にはなりません。では、此の子をよろしくお願いします」

 

 大司祭様はそれ以上は何も言わず、ただ穏やかな微笑を残して立ち去った。

 

「……よろシくお願いシマス」

 

 言ってお辞儀をした少年は完全に前髪とフードで隠れた視線を此方に向けてにんまり笑う。

 

 

    ※    ※    ※ 

 

 

 5日後。休憩時間が終わっても彼が戻ってこないので足早に敷地内を探し回った。中庭に辿り着くと探している人物がいて、相も変わらず長い前髪と深くかぶったフードで目元が完全に見えない横顔は何処か遠くをぼんやり眺めており、纏った白のローブは陽光を受けて輪郭をぼかす。同じ雑用係とは思えない幻想的な存在感に息を呑む。

 

「……あ、先輩」

 

 此方を振り向きにっこり笑う口元。小走りに近寄ってくる彼はなんだか子犬のようだ。

 

「先輩も休憩、デスカ?」

 

 会話に不自由はないが彼の喋り方はなんとなくぎこちなく、独特な訛りがある。ただでさえ大司祭様が連れてきただけあって私が思っていたよりも周囲からの認知度が高く好奇の目に晒されやすい彼の喋り方はからかいの的だ。他者からの嗤い声を気に留めるそぶりは一切見えないが、気持ちいい筈がない。

 

「先輩?」

 

 見えない視線で私の顔を覗き込む彼は小首を傾げた。

 

「……今日はもう、終いにしよう」

「え、デモ――」

「流石にお前も気付いていると思うけど、各天使様の配下に雑用係の肩書を持つ者達がいるが、機能しているのは実質私しかいない。勿論全ての雑用係がそうじゃない。中には管轄が違うのに手を貸してくれる者もいるし、今でもそうしてくれる人はいる。……先にも言った通り、実質私しか居ないから決めた時間配分の通りに動く必要はない。休憩時間を護らなくても本当は問題ないんだ。雑用係を統べるのは此の私。だから私が終いと言ったら今日の業務は終い! 管轄する分の仕事は終わらせたから、偶にはいいだろ。そうだ街へ行こう。うまいイフェリコ豚の店を知っているんだ。ああ、お前が成人していたなら美味い酒をご馳走してやれるのに!」

「……僕、18なので成人済み、デス」

「……え?」

「18、デス」

「え。いや、どう見ても14、5だろ。ちっこいし」

「標準身長に届イていナイダケ、デス。大司祭サマに尋ねてクダサイ」

「え。あ……ああ……」

 

此の時の衝撃は今でも鮮明に覚えている。私でさえ彼と同じ年齢の時は10センチほど高かった。

 

 

 彼は私に懐いてくれた。それは紛れもない事実だが、言葉に言い表す事ができない壁のような、溝のようなものを感じていたのもまた事実。私は彼を信じていた。彼が私に向けてくれるものが本物であると、信じて疑うことをしなかった。

  彼が私のもとを去ったのは半年が過ぎようとした頃。その時に死を司る天使様が代行者を去ってから長い期間欠員していた死天の座に彼が任命されたと風の噂で耳にする。何故報告に来ないのかと憤慨する一方、後輩の出世は素直に嬉しい。今は誰一人と居ない配下を新たに募るのではないかと期待したが叶うことはなく、私が彼と顔を合わせることもなくなった。

 

 せめて別れの挨拶にくらい来てくれても……。そんな鬱憤を晴らす為に雑務に専念しているとあっという間に10年の月日が流れていき、他の天使様達が次々に此の地を去り天界へと戻られ、大司祭様が全てを一任するようになってから組織内は目に見えて荒れ始めた。

 

 ある者は独自の思想を掲げて独立し新興宗教の乱立を招き人々を混乱させて惑わし、ある者は信仰を金儲けの道具に利用しようと企て、信仰を捨てた者は大司祭の地位が何千年と続いている事を疑問視し、化け物だと罵り迫害する。

 

 そんな状態が6年続いたある日、大司祭様が直々に呼び掛け信仰心が篤い者達を可能な限り大神殿に集め、低くゆったりとした口調で言葉を紡いだ。

 

『もしも不安や迷いが生まれたならば、教示を読みなさい。私達が遺した書物に記すは神の意思。神の思想。神の願い。其れは如何なる時代も変わりません。もしも憂いが晴れないのであれば、幾度でも読み返しなさい。そして祈るのです。常に心を穏やかに保ち、天使と波長を合わせるのです。さすらば何も恐れることはありません。揺るぎない守護の下で生かさせていただいているのですから、案ずることはないのです。私は此処を去りますが、どうか正しき信仰の邪魔をする者達を責めず、お赦しください。彼等は神より破壊の御役を与えられたのです。此れから先、ますます世界は荒れ、正しき信仰が廃れていくでしょう。信仰者だけでなく、全ての人類が神によって選別される世が訪れるのです。天使と悪魔の戦いは既に始まっています。我らが天界へと戻るのは其の為です。神の子等を見捨てたわけではありません。どうか嘆かず、正しき信仰を忘れず、生き残ってください。後世に正しい信仰の種を残し、芽吹かせてください。そしてどうか、神が築く楽園へ足を踏み入れることを赦される人となってください。此れは信仰を赦された者に与えられた最後の試練なのです』

 

 誰もが穏やかな声音に聴き入り、声を潜めて泣く者もいた。皆の頭上に天使の加護があらんことを。言い終わると優しい笑みを残して去って行く大司祭様の隣に彼の姿はない。

 

 

「…………」

 

 

 

  あれから数十年。私はすっかり年老い、今では自由に歩くことさえ出来なくなった。呼吸を繰り返せば、ヒュゥ、ヒュゥ、と笛のような音が胸から繰り返し鳴り響く。常に息苦しさが付き纏い、私の意識は霞がかっている。

 

「父さん、散歩の時間だよ」

 

 いい歳になった息子は独身の儘で私の介護に勤しんでいる。司祭は何かと忙しいだろうに……。寝たきりは身体によくないからと、私を車椅子に乗せて部屋の外へ連れ出した。

 

 中庭はいつ来ても静かだ。穏やかな陽光に満たされた此処に来ると思い出す。幾ら敷地が広いと言えどもばったり出くわすことはあるだろう。そう思いながら私は最後まで雑用係として在り続けたが、集会に出ようとも彼と顔を合わせることもなく、顔見知りや息子に聞いてもそれらしい者は居ないと言われ、私は再会を諦めていた。

 

 

 今日という日を迎えるまでは……――。

 

 

 中庭に着くなり少しでいいから1人になりたいと息子に伝え、渋る息子を無視して身体に鞭打ちながら車椅子を漕ぎ進む。中央に見知った人物が立っていた。相も変わらず長い髪と深くかぶったフードで完全に目元が隠れた横顔は何処か遠くをぼんやり眺めている。

 

 彼が纏っているフードや袖口にシベリアヒナゲシやイチイなどの刺繍が美しい白のローブは陽光を受け輪郭をぼかす。穏やかで優しくも深い静寂を湛えた現実味のない空気に私は一瞬で夢現の境を失った。声をかけるのを躊躇して見つめていると、ゆっくりと頭が動く。

 

「……あ、先輩!」

 

 振り向く彼は唯一窺える口元に笑みを浮かべる。小走りに近付いて来て、膝を折ると私の顔を完全に隠れた視線で覗き込む。

 

「ご無沙汰、デス」

 

 その喋り方はまだなんとなくぎこちなく、独特な訛りが残っていた。

 

「何故、挨拶に来なかった?」

「……ごめンなサイ」

「責めてない! ……寂しかっただけだ。今まで何をしていた? 此処に居たのか? ああ、そうだ。死天の座就任おめでとう。アズラエルの募集があったら名乗ろうと思ったが――」

「先輩」

 

 私を呼ぶ声音は言葉を噤むだけの圧がある。

 

「ああ、すまない。私ばかりが話してしまって……嬉しくて……。然し、お前は変わったな。昔はもっと話し掛けてくれたのに」

「僕は何も変わりマセン。今も、昔も、変われナイ、デス。もしも此の場に変化があるとするならば、其れは先輩の方デス」

 

 彼の言う通りだ。階級が上がったので纏うローブがより高品質になり喋り方が多少上達したような印象は受けるが彼の声音も、見た目も、何1つ変わっていない。恐らく私に対する感情も態度も何1つ変わっていないのだろう。私が勝手に懐かれたと判断して浮かれていただけで。今なら分かる。初めて会った時から彼は……――。

 

「私はもう死ぬのか……」

「ハイ」

「そうか……。まさかお前が。貴方がタナトス様だったなんて! 何故!? 何故私の両親を見殺しにした!? 何故私からたった1人の肉親である弟を奪った!?」

 

 私は彼の胸倉を掴み、声を張り上げた。カーッと身体中を熱が駆け巡り、ドクンドクンと心臓が大きく、強く脈打ち始める。

 

「あんな風に私に接したのは罪滅ぼしの心算なのか!? 大司祭様も酷なことを! 嗚呼タナトス! 死の化身! 死の体現! 何故私から最愛の者達を奪い去るのか!?」

 

 怒りに支配された私に彼の口元から感情を読み解くことはない。

 

「嗚呼……忌々しい穢れめ……お前など――」

 

 ビクン。心臓が大きく跳ね、ビクビクビクビク肉の下で震えだす。

 

「っ――」

 

 息を吸おうとしても単発的に引き攣るだけで正常な呼吸が儘ならない。嗚呼……私は誰に看取られることなく死んで逝くのか。

 

「父さんっ!?」

 

 近くて遠い場所で息子の声がする。嗚呼、息子よ。此方に来るな! 彼に近寄るな! その思いもむなしく駆け寄ってきた息子の姿が彼と重なり、ゆっくり彼が端に避けた。

 

「貴方の息子サンには、僕の姿は見えていマセン。僕は〝死〟デスカラ」

 

 彼は口元に笑みを湛える。穏やかで、とても優しい笑みを浮かべて私の命を摘み取った。

 

 

 

   終

 

――――――――――

あとがき

 

 閲覧ありがとうございます。

 誤字脱字ごめんなさい。

 

 此れはイフェリア在住で神の代行者に所属していた男性の生前の記憶ですね。

 

 

補足

 

死天の座:アズラエル達を束ねる最高位職。

 

 

タナトス:死を司る天使。死者の魂を導く者。死の具現。死の体現。死その物。穢れと呼ばれ生者から恐れられている。長いあいだ世界を放浪するなどしていた。

 

アズラエル:タナトスの配下である司祭の総称。死者の魂を冥府へ送り届ける為の葬送の儀の準備や其の手伝い、此れから訪れる死が穏やかであるよう生者の憂いを晴らし、愁いを慰め、心を癒し、彷徨える亡者を導き、供養するのが仕事。時に生者の罪を測り生を摘み取り裁く事もしばしば。

 

 

20201221

 柊木 あめ